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奈良地方裁判所 平成3年(ワ)195号 判決

原告

平山亘(X)

右訴訟代理人弁護士

中村悟

馬場勝也

被告

奈良市(Y)

右代表者市長

大川靖則

右訴訟代理人弁護士

田中義雄

被告

酒井正志

理由

一  請求原因1について

1  〔証拠略〕によれば、本件貸付けの経緯は次のとおりであると認められる。

(一)  輝行は、被告酒井に対して、輝行の父である實所有の本件不動産を担保にして適当な融資先を紹介してくれと依頼していた。被告酒井は、原告にその話を持ちかけ、原告から本件不動産を実際に見たいとの申出があったので、平成二年七月末ないし八月初旬ころ、被告酒井は、現地で原告と輝行を引き合わせた。その際、原告は、輝行に対し、本件不動産を担保に八〇〇〇万円ほど融資できること及びその手続上、印鑑証明書、不動産評価証明、登記済権利証が必要であると伝えた。

(二)  その後の同年八月九日、本件貸付けを行うこととなり、被告酒井は、輝行を伴って原告の事務所を訪れた。そして、輝行は、実際には實が本件物件を担保に供すること及び連帯保証人になることを承諾していないのに、原告に対し、實の承諾を得て実印と印鑑証明書(二通)を預かってきたと述べて原告を欺罔し、本件印鑑証明書二通(〔証拠略〕)、土地課税台帳登録事項証明書二通、家屋課税台帳登録事項証明書二通を原告に交付した。

輝行が本件不動産の登記済権利証を持参しなかったため、中川司法書士が實の意思確認をしたいと述べたところ、輝行は實は癌で余命半年であり、起きて話ができる状態ではないと述べた。そこで、原告は、實の意思確認をしないまま、輝行に対して金八〇〇〇万円を、弁済期平成三年二月九日、年利三割とし、金一二〇〇万円を天引きした上で貸し付けた。その際に作成された借用書(〔証拠略〕)によれば、連帯保証人を實とし、本件不動産につき右弁済期に返済できないときは山本恭昭にその所有権を移転する旨の約定になっている。中川司法書士は輝行に實名義の本件不動産に関する所有権移転請求権仮登記、所有権移転登記、買戻特約登記の各手続の委任状等(〔証拠略〕)を作成させた。なお、右貸付けに際し、原告は輝行の信用調査や實の病状についての調査を行っていない(〔証拠略〕)。

(三)  原告は、輝行に交付した現金六八〇〇万円のうち次の金額しか回収できなかった。

〈1〉平成二年 八月二二日 八〇〇万円

〈2〉同月二五日 三二五〇万円

〈3〉同年一二月一二日 五〇万円

〈4〉平成三年 二月一二日 五〇万円

〈5〉同年 三月一二日 二五万円

〈6〉同年一一月二七日 二〇〇〇万円

二  被告市職員の過失について

1  本件印鑑登録条例及びその運用

請求原因2(一)の事実は、原告と被告市との間で争いがなく、原告と被告酒井との間でも甲八によりこれを認めることができる。

〔証拠略〕によれば、本件条例の運用としては、本人申請の場合、写真付き公的証明書方式で確認し、それができないときは照会書郵送方式によるのが原則であって(〔証拠略〕)、保証書方式による場合には、出頭した者が本人であることを確認するため、印鑑登録申請書等に記載された申請者の住所、氏名、生年月日の記載を担当職員が取り寄せた住民票の写しの記載と照合すること、保証人の印鑑登録原票及び住民票の写しを取り寄せ、保証人が印鑑登録申請書の保証人欄に記載した住所、氏名と照合し、かつ、同欄に捺印された保証人名下の印影が保証人の印鑑登録の印影と同一であることを確認することになっており、さらに、国民健康保険証等により本人の確認を行い、それができない場合には本籍等を質問して、本人の確認をしていること、また、本人が自署できない場合には代署も認めるという取扱いをしていることが認められる。

2  本件印鑑登録証明書発行の経緯

(一)  輝行が、平成二年八月六日、奈良市長に対し、實名義の印鑑登録証喪失等届と右保証書方式による本件印鑑登録申請が同時に行われ、これが登録され、右印鑑登録に基づいて、同日付けで本件印鑑登録証明書二通が発行されたことについては、原告と被告市との間で争いがなく、原告と被告酒井との間でも、〔証拠略〕により、右事実が認められる。

(二)  〔証拠略〕によれば、次の事実が認められる。

(1) 輝行は、平成二年八月六日、北村眞子と白髪の男性(實ではない)を伴って奈良市役所に行き、印鑑登録係のカウンターにいた被告市の職員畑脇に対し、印鑑登録証亡失等届書(〔証拠略〕)、印鑑登録申請書(〔証拠略〕)、保証書(〔証拠略〕)、印鑑登録証明書交付申請書(〔証拠略〕)等を提出したが、右印鑑登録証亡失等届書及び印鑑登録申請書の申請人欄に代理人として輝行の名を記載していた。

畑脇は、輝行に實が来庁しているかどうか尋ねたところ、輝行は、カウンターから二、三メートル後ろの長椅子に座っていた前記男性を指して本人であると言った。なお、實本人は大正三年一二月二〇日生まれである。

畑脇は、本人が来庁しているので本人申請にするように指導したところ、輝行は、實は手が震えて書けないと答えた。畑脇は、被告市の職員平岡と相談の上、輝行に實の署名・押印を代行させて、訂正印を押した。畑脇は、保証人の確認のため輝行に輝行の印鑑登録カードと運転免許証を提出させ、右各書類を入力の係をしている職員の宮崎に渡した。

(2) 宮崎は、保証人の印鑑登録原票及び住民票の写しを取り寄せ、保証人が印鑑登録申請書の保証人欄に記載した住所、氏名と照合し、かつ、同欄に捺印された保証人名下の印影が保証人の印鑑登録の印影と同一であることを確認したが、印鑑登録申請書等に記載された實の住所、氏名、生年月日の記載を住民票の写しの記載と照合したところ、實の生年月日が違っていたので、印鑑登録手続の完了後、平岡に対し、印鑑登録証交付の際に確認するように連絡した。そこで、平岡は、輝行に対して本人に確認してもらうように言ったところ、輝行は「本人は歳がいっていて惚けているので自分でもはっきりとは覚えていない」と答えた。平岡が、本人に訂正してもらうよう言ったところ、輝行が手が震えて書けないといっため、平岡自身が右四通の書類の生年月日欄を訂正し、輝行から印鑑を借りて訂正印も押捺した。また、本件印鑑登録申請は保証書方式でされていたので、平岡が保険証の提示を求めたが、輝行は保険証を持参していなかった。

そこで、平岡は、本人に確認するように輝行に言ったところ、輝行は實は惚けていて答えられないし、本籍は實の現住所であると答えた。平岡は、實の本籍は前の住所地であると説明し、輝行に対して保証書の裏面(〔証拠略〕)に本籍地を書かせたところ、輝行は、番地を記載することができず、平岡が教えてようやく輝行は記載することができた。平岡は、申請人が實本人であると判断し、輝行に印鑑登録証を交付し、交付窓口の職員が輝行に本件印鑑登録証明書二通を交付した。

(3) ところが、係長の日野が当日分の申請書を整理していた際、本件印鑑登録申請書等の生年月日等が訂正してあるのを発見し、関係書類を調べたところ、實が一〇日ほど前に運転免許証による方式で本人による印鑑登録をしていることが判明した。そこで日野が翌日電話で實に確認したところ、同人は八月六日に申請を行っていないことが判明した。

3  右の事実を前提に被告市の過失を検討する。

(一)  被告市が採用している印鑑登録証明制度は、申請者が印鑑登録の際に交付された印鑑登録証を持参すれば、印鑑登録原票に登録されている印影を複写して、これが登録されている印影の写しであることを市長が証明する方式(間接証明方式)であり、本人であることあるいは本人の意思に基づく手続であることを確認する機会は登録時にほぼ限られる。このような制度のもとにおいては、印鑑登録証明の不正使用の防止とその手続の簡易迅速性という双方の要請を実現するためには、印鑑登録時において、登録申請が本人の意思に基づくものであることの確認が、より慎重になされるべきである。

本件時例では、本人の同一性とその登録申請意思の確認の方法を、前記のとおり照会書郵送方式によるのを原則としており、例外として写真付き公的証明書方式及び保証書方式が認められている。写真付き公的証明書方式は、その場で写真により本人の同一性を確認できるので客観的に高度な確実性をもって本人確認のできる方法であるが、保証書方式による場合は、保証人において当該申請人が本人であることを証明するだけであるから、その保証人を信用するほかに客観的にこれを確認できるものがなく、申請人と保証人が通謀して虚偽の申請が行われる危険性が高い。したがって、保証書方式による印鑑登録申請の場合には、担当職員は右申請のため出頭した者が本人であることをより慎重に確認する必要がある。そのためには本件条例一五条によって定められた関係人に対する質問調査権を適切に行使し、健康保険証、身分証明書等の疎明資料の提出を求め、更には住民票記載の本人の本籍、家族構成等本人でなければ容易に知り得ない事項を質問して、当該申請人が本人であるかどうかにつき調査を尽くすべき義務があり、特に印鑑登録証亡失等届書が提出されている場合には、なおさら慎重に右調査を行うべきである。

(二)  本件では、前記2(二)(1)、(2)のとおり、印鑑登録証亡失等届書が提出されている場合であるにもかかわらず、担当職員は、輝行の「本人は手が震えて署名ができない。年齢のため惚けており、生年月日、本籍地もおぼえていない」との言動にだまされ、輝行が實と称する者に質問を発したりせず、その保険証等疎明資料の提出のないまま右實と称する者に対し直接確認を行わず、保証書方式によってその登録申請意思の確認をしたものである。輝行が本件印鑑登録申請書等に記載した實の生年月日は誤っており、輝行は實の本籍の正しい番地を記載することもできなかった。なお、印鑑登録証明書を発行した直後、副票等の書類を調査して實が一〇日ほど前に運転免許称による方式で本人申請をしていることが判明している。

(三)  したがって、担当職員において、保証人たる輝行の確認を運転免許証で行い、印鑑登録原票及び住民票の写しを取り寄せ、輝行が印鑑登録申請書の保証人欄に記載した住所、氏名と照合し、かつ、同欄に捺印された保証人名下の印影が輝行の印鑑登録の印影と同一であることを確認していること、輝行と實が親子であること、輝行が實であるといって指し示した者の年齢が實に近いこと、實の保険証等の提示を求めていること等の事情を考慮しても、被告市の担当職員には過失があったというべきである。

三  原告主張の損害と過失相殺について

1  前認定の事実によれば、被告市の担当職員の過失により本人である實の意思に基づかずに本件印鑑登録がされ、本件印鑑登録証明書が発行されており、原告は、右印鑑登録証明書に基づき、實の意思を確認したものとして本件貸付けを行っている。したがって、被告市の担当職員の過失と原告の損害との間には因果関係がある。

2  しかし、〈1〉原告は、實が本件貸付けの連帯保証人及び物上保証人になることにつき、實に対し直接その意思を確認していない。〈2〉また、輝行は本件不動産の登記済権利証を持参せず、借用書(〔証拠略〕)の實の署名・押印はもとより、本件不動産についての所有権移転請求権仮登記、所有権移転登記、買戻特約の各手続の中川司法書士に対する委任状の實の署名・押印はいずれも輝行が代行している。〈3〉本件取引につき實が輝行に委任する旨の委任状が存在した形跡もない。〈4〉さらに、原告は實が病気であるかどうかにつき確認していない上、原告は輝行についても信用調査をしていない。〈5〉しかも、本件印鑑登録証明書の印影は、市販のいわゆる三文判の印章によるものである。これらによれば、原告は、輝行と實が親子であること及び印鑑証明書の印影と一致する印鑑を輝行が持参したことのみを根拠として本件貸付けを行ったもので、金八〇〇〇万円(一二〇〇万円を天引き)もの貸付けを行うにしては極めてずさんといわざるを得ない。そうすると、原告は通常取引社会において要求される注意義務を著しく欠いたもので、被告市の担当職員の過失と対比すれば、原告には重大な過失があるというほかはない。

3  ところで、原告と輝行とが平成三年一〇月二九日の本件口頭弁論期日において和解をしたことは、原告と被告市との間に争いがない(なお、右和解においては、原告は利害関係人實が二〇〇〇万円を平成三年一一月末日までに遅滞なく支払ったときは輝行に対する残債権を放棄することになっていることが記録上明らかである)。そして、輝行の詐欺による不法行為による損害賠償責任と被告市の不法行為による損害賠償責任とは、いわゆる不真正連帯の関係に立つところ、輝行は故意により被告市の担当職員を騙した者であるから、輝行と被告市の関係においては、被告市の負担部分は零というべきである。一方で、本件における被告市の過失は、原告のそれと比較するとそれほど重大なものと評することはできない。してみると、原告の被告市に対する請求は、いわば、自らの著しい過失による損害を、輝行の負う損害賠償責任を和解により解決しつつ、被告市に転嫁するものとの誹りを免れない。結局、被告市の過失相殺の主張は理由があり、原告の過失割合は、本訴請求額の九割とするのが相当である。したがって、原告の被告市に対する請求は、八一万二四一五円(一円未満四捨五入)とこれに対する平成三年一一月二八日から支払済みまで民法所定年五分の割合の遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。

四  被告酒井の不法行為責任について

〔証拠略〕によれば、被告酒井は少なくとも、本件貸付けの前日に本件不動産が輝行の父である實の所有に属する旨を原告に告げていることが認められる。

原告は、被告酒井が輝行の経済状態が極めて悪化しているのを知りながら、物上保証人たる實の意思の確認もせず、貸付けを受けた金額の一割を礼金としてもらう約束を輝行との間に交わし、原告に融資の依頼をしていることを根拠として、被告酒井に不法行為が成立すると主張している。しかし、資産状態が悪化している者につき融資を斡旋することは不法行為を構成するものではなく、物上保証人の意思の確認も貸主である原告が当然行うべきものであるから、右の主張は採用できない。

五  結論

以上によれば、原告の請求は、被告市に対して前記の限度で理由があるからこの部分を認容し、被告市に対するその余の請求及び被告酒井に対する請求をいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 前川鉄郎 裁判官 井上哲男 近田正晴)

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